丹波国-刈野神社




桓武平氏の祖−葛原親王を祀る式内社


刈野神社
刈野神社参道 ・ 寺院を思わせる白壁 ・ 見事な石灯籠 ・ 本殿への石段 ・ 長床から本殿を見る

拝殿と本殿 ・ おりからの緑に映える社殿 ・ 狛犬阿像 ・ 参道脇の祭祀跡
 

刈野神社は第五十代桓武天皇の第三皇子で小椋庄領主の一品太宰帥葛原親王を祀ったことに始まる。葛原親王は仁寿三年(853)に六十八歳で薨じ、それから五十年後の延喜五年(905)に延喜式内神社に列した。
長和元年(1012)、小倉村大嘗会主基奉供とあり、主基とは天皇践祚に新穀を奉る悠紀殿(東方の祭場となる殿舎)・主基殿(西方の祭場となる殿舎)、両斎国(供える饌米・神酒料を作るために、特に卜定された国)をいう。いまも、その名残の御田植神事が行われている。下って文明三年(1471)、幕府管領で丹波守護の細川勝元は小椋庄領家職の安堵状を久下重光に授けるとあり、応仁の乱のころは久下地頭の下で祭祀が行われていた。やがて、天正六年(1578)十二月、丹波攻めを進める明智光秀が刈野神社を見下ろす金山に山城を構え、その兵火によって刈野神社の社坊ことごとく焼失した。
江戸時代はじめの寛文六年(1667)、仮宮から現在地に造営遷宮し、正徳四年(1714)に本宮殿の再建がなった。本宮殿は三間社流造で、正面に千鳥破風、軒唐破風を付し、正面と両側面の三方には縁をまわし、脇障子を立てる。本殿内部から上棟式に用いられたと考えられる年号と大工名の記された小槌が発見され、建立年代、大工名の判明する建築物といして貴重なものとなっている。
刈野神社は、上・下小倉の鎮守社として江戸時代を通して両集落の「宮の党」という宮座によって守られてきた。 神社前を走る古山陰道を丹波篠山側に越えた大山に伝えられる民話「神様の追掛けっこ」の逃げた神様は追入神社の 神様といわれるが、ほんとうは刈野神社まで逃げたともいわれている。 祭神の葛原親王といえば桓武平氏の先祖であり、平氏ゆかりの伝承があるかと期待したがそれらしいものは 発見できなかった。刈野神社を特徴付けるのは葛原親王のみを祀ることで、境内には摂社・末社が一つも存在しない 珍しい神社である。
【丹波国小椋庄刈野神社略縁起より】


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