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参道脇の舞殿? ・ 参道の鳥居 ・ 参道脇の祭祀跡? ・ 金殿井への門 ・ 石段と金殿井 |
本殿への石段 ・ 拝殿 ・ 中門 ・ 中門から本殿を参拝 ・ 右手より本殿を見る |
本殿左手の摂社群 ・ 提灯に描かれた鳩紋 ・ 焼け跡の残る旧礎石 ・ 後方山上の宇佐山城址石垣 ・ 宇佐山城址の横堀遺構? |
宇佐八幡宮は、八幡大神(應神天皇)を御祭神としている。社伝によれば、 前九年の役ののちに近江国志賀郡錦織に邸を構えた鎮守府将軍源頼義が、 邸の裏山の麓に九州豊前に鎮座する宇佐八幡を勧請し源氏の産土神として祀ったことに始まる。 ときに冷泉天皇の御世、治暦元年(1065)八月十五日のことであったと伝えられている。 宇佐八幡宮の名にちなんで、裏山は宇佐山と称されるようになった。ちなみに 志賀郡錦織の地は、古代、天智天皇が近江京を置かれたところで、 宇佐八幡宮の東隣には天智天皇を御祭神とする近江神宮が鎮座している。 源頼義は武家の名門清和源氏のなかで嫡流に位置づけられ、嫡男の義家は 石清水八幡宮で元服して八幡太郎、次男の義綱は賀茂神社で元服して賀茂次郎、三男義光は 新羅善神堂で元服して新羅三郎と称して一門はおおいに繁栄した。 ちなみに八幡太郎の後裔に源頼朝が出て鎌倉幕府を開き、三男義光の後裔からは 武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏など錚々たる武家が派生した。 また、頼義は河内の本拠に壷井八幡宮、東国の相模国鎌倉に鶴岡若宮(のちの八幡宮)を 京男山に鎮座する石清水八幡宮から勧請している。 戦国時代、織田信長は宇佐山の山上に山城を築き、部将の森三左衛門可成に守らせた。 元亀元年、朝井長政・朝倉義景の連合軍が湖西に進出、これを迎撃した三左衛門は坂本の戦いで討死、 宇佐山城は落城こそ逃れものの八幡宮をはじめ山麓は浅井・朝倉勢によって焼き払われてしまった。以後、 仮殿を立てたままで現在に至っている。宇佐八幡宮は、「むし八まん」と称されて子供の守り神としても知られているそうだ。 境内の金殿水 昔、天智天皇(667)がこの地に皇居を定められた折り病気になられ、その時「中臣ノ金」という人が この井戸水を差し上げたところ御平癒されたとある。故にこの泉を「金殿井」いう。後世、この水を頂き疾病に霊験を受く。 八幡宮の創建(1065)に際し「御神水」として一般に公開、次第に広くその効を伝え、特に難病諸病に奇瑞あり。 毎年八月上旬に霊泉祭が行なわれ、土用の日にこれを頂くととくに効験あり。 [神社案内板の由緒書 など] |