戦国時代、丹波上村荘(亀岡市平松附近)の代官職を保持した八上城主波多野氏は、神尾寺城、数掛山城、 鷹ヶ峰城などを築いて上村荘の支配と京、摂津方面への守りを強化した。数掛山城は丹波から摂津能勢に通じる 能勢街道を眼下に見下ろす山上にあり、よくもこんなところに城を築いたものと驚かされる。城主は波多野氏の一族 与兵衛秀親というが、地元土豪の森氏が拠った城とする説もある。 |
城址に登ったあと、かつて城址に祀られていた白山権現を鎮守とする大黒山永徳寺を訪ねた。永徳寺は鎌倉時代の
九重塔と推定される七重となった層塔が現存する、亀岡市内でも屈指の古刹である。山側にある古い墓地を訪ねると、
大西家、中村家、栗林家、そして森家の墓が祀られていた。それぞれの家紋を見ると、
丸に割菱 酢漿草(カタバミ) 剣酢漿草 上り藤に左鎌 となっている。 大西家の「割菱」紋は甲斐の戦国大名で有名な武田氏の紋として有名なもので、「武田菱」とも呼ばれる。中村家・ 栗林家の「酢漿草(カタバミ)」紋は、藤・鷹羽・木瓜・桐と並んで「五大紋」の一つに数えられるポピュラーなものだ。 目を引いたのは森家の「上り藤に鎌」紋だ。 鎌紋といえば、信濃の諏訪神社、戸隠神社が神紋に用いている。藤に鎌紋を用いている家を探すと、 徳川旗本のうち川井氏と深津氏が見つかった。川井氏は遠江から発祥したといい、深津氏は元矢田氏を称していたが深津に改めた ものという。そして、いずれも藤原南家流を称している。藤紋は藤原氏から分かれたと称する家が多用する紋であり うなづけるものだが、中の鎌は何を意味するのだろうか。鎌は諏訪神社の神体として氏子が紋に用いる例が多く、また、 農具として大切にされた。但馬では一年の農作業が終わると「鎌祝い」を行う風習があり、鎌は邪気を払うものとして 大事な農具として重要視されていた。一方、その切れ味から旗印に用いる武将もいた、関が原の合戦で 東軍勝利のきっかけをつくった小早川秀秋の違い鎌紋はよく知られている。永徳寺墓地の森家は、 数掛山城ゆかりの家とも思われ、その鎌紋は諏訪信仰あるいは、武家時代に用いた旗印からきたものかも知れない。 家紋の由来とともに家の歴史が気になるところだ。 ………………………………………………………… 【その後】 偶然というか、亀岡森家の分家という森さんからメールをいただいた。「上り藤に左鎌」が正式な名称で、 高知の森姓にも、この家紋があるとか…。そして、森家の菩提寺は、臨済宗大徳寺派の曹渓山宝林寺とご教示いただいた。 早速、おりからの雨のなか宝林寺に出かけ、境内墓地を訪ねたところ、森家の墓石が林立していた。 なかには、中世のものかと思われる古い五輪塔などもあり、改めて森家の歴史が気にかかってきた。 墓石に据えられた家紋は、もちろん、すべて「上り藤に左鎌」であった。見ると、鎌は右に傾いたものがほとんどだが、 中には真っ直ぐのものもあり、家によって鎌の配置が違うのは本支を分けたものなのか?などと興味が尽きなかった。 ・境内で拾った森家の家紋群 |