境内墓地にお邪魔すると、まず目に入ったのが「獅子牡丹」紋、名字はと見ると荒木家とある。
東本荘一帯を領した荒木氏の後裔にあたる家なのだろうか?
ついで大對家の「抱き柊」紋、大對という名字も「柊」紋も珍しいものだけにその出自が気になったが資料もなく
墓石だけでは諦めるしかない。先に見た宇野家の墓もあり「一文字に三つ星」、中森家も同じ紋である。
篠山市内の小林寺では、同姓でありながら多様な家紋が用いられていたが、
こちらでは異姓で同紋である。ここらへんが、家紋と家の関係を考察するときに大きなハードルとなるところである。
家の歴史を調べるとき、たしかな古文書や町の資料館などに先祖の記録が残っているケースは武家や旧家ならまだしも、 一般の家においては稀なことである。そのようなとき、ヒントのひとつになるのが家紋である。というのは、 家紋には家の目印として成立した背景があり、名字とは一体化したものであったからだ。それが 、家の栄枯盛衰などによって、本来の家紋を変更したり、忘れられてしまったりした。決定的となったのが、 明治維新のとき、名字をもたなかった家が名字を名乗るようになった。そのとき、併せて家紋も用いるようになった。 なかには長く秘していた遠い先祖の名字や家紋を用いた家もあったであろうが、よほどの家でない限り 名字や家紋とは無縁だった。その結果、表現は悪いがそれぞれ好きな紋章を家の紋とし、 名字と家紋の一体感は大きく失われてしまった。 左から、獅子牡丹紋・対い柊紋・結び雁金 残念なことだが、それはそれで仕方のない現象というしかない。とはいえ、墓石に刻まれた家紋と名字を見比べていくと、そこには勝手次第に家紋を用いたとは思われないものがある。洞光寺の境内墓地にあった赤井家の家紋を見ると、戦国時代に黒井城に拠って明智軍に抵抗した赤井氏と同じ「結び雁金」紋であった。やはり、すべてとはいえないが、家紋と名字にはルーツにつながる名残があるように思えてくるのである。 小林寺でも、洞光寺でもそうだったが、古い墓石がピラミッド状に積まれ無縁簿墓あるいは古墓としてまとめて供養されている。古い墓地を整理しキレイにした結果だとは思うのだが、家の歴史、ひいては村、町の歴史が封じ込められてしまっているようで残念に思われる。しかし、古いものを整理していかないと、新しいものが生まれる余地もなくなってしまう。これも仕方のないことだが、残念なことには違いない。子孫が繁栄し記録が残っていく家はいいのだが、祀りが途絶えた家となれば風化していくばかりとなる。まさに、栄枯盛衰、諸行無常を実感するところである。 |