続・丹波篠山の家紋散歩

 
沢田山小林寺の境内墓地で家紋を探索したあと、東本荘にある市谷城址への登り道を探索するため東本荘へと車を移動した。その途中で、立派な家に据えられた「六つ柏紋」が目に入った。早速、車を路肩に停め、家の表札を見ると小畠家とある。おそらく、園部の宍戸城主であった小畠氏の一族かと思われ、すぐ近くの慈照寺を訪ねてみた。境内墓地に足を踏み入れると、小畠家の墓石が並び立ち、いずれも「六つ柏」紋が刻まれていた。お寺の佇まいもいい感じで、なんだか得した気分である。


少林寺 慈照寺本堂


目当ての市谷城址への登り道は、慈照寺東方の谷筋にある寺院東側の尾根にあるはず!とにらんで車を走らせる。 城址が見えるところに車を停め、登り道を探して歩き出すと「一文字に三つ星」の家紋を付けた家がある。 「一文字に三つ星」といえば戦国大名毛利氏と同じ紋であり名字が気になったが、さすがに見ず知らずの方の家先に ズカズカと入っていくことははばかられる。ひとまずあきらめて、寺院を目指す。

酢漿草 割菱
左から、六つ柏(柏車)紋・一文字に三つ星 

地元の方に城の登り口を教えてもらい、「松茸の季節でなければ、自由に登っていいよ」との有難いことばを頂戴、 一度話すと田舎の人は親切です。お礼をいい、「一文字に三つ星」の家のことを聞くと 「あれは宇野さんの家や」と教えていただいた。
戦国時代の東本荘一帯は細工所城主荒木氏が領したところで、市谷城は支城の一つである。また、 市谷城祉東南山麓にある寶鏡山洞光寺は、北朝時代後期に創建された曹洞宗の寺院で、 足利将軍家や丹波守護細川氏の崇敬を集め丹波三ヶ寺の一つに数えられた名刹である。

少林寺 少林寺
洞光寺と市谷城址(後方の山)・寂び寂びとした佇まいの境内
 
境内墓地にお邪魔すると、まず目に入ったのが「獅子牡丹」紋、名字はと見ると荒木家とある。 東本荘一帯を領した荒木氏の後裔にあたる家なのだろうか? ついで大對家の「抱き柊」紋、大對という名字も「柊」紋も珍しいものだけにその出自が気になったが資料もなく 墓石だけでは諦めるしかない。先に見た宇野家の墓もあり「一文字に三つ星」、中森家も同じ紋である。 篠山市内の小林寺では、同姓でありながら多様な家紋が用いられていたが、 こちらでは異姓で同紋である。ここらへんが、家紋と家の関係を考察するときに大きなハードルとなるところである。
家の歴史を調べるとき、たしかな古文書や町の資料館などに先祖の記録が残っているケースは武家や旧家ならまだしも、 一般の家においては稀なことである。そのようなとき、ヒントのひとつになるのが家紋である。というのは、 家紋には家の目印として成立した背景があり、名字とは一体化したものであったからだ。それが 、家の栄枯盛衰などによって、本来の家紋を変更したり、忘れられてしまったりした。決定的となったのが、 明治維新のとき、名字をもたなかった家が名字を名乗るようになった。そのとき、併せて家紋も用いるようになった。 なかには長く秘していた遠い先祖の名字や家紋を用いた家もあったであろうが、よほどの家でない限り 名字や家紋とは無縁だった。その結果、表現は悪いがそれぞれ好きな紋章を家の紋とし、 名字と家紋の一体感は大きく失われてしまった。

獅子牡丹 柊 結び雁
左から、獅子牡丹紋・対い柊紋・結び雁金  

残念なことだが、それはそれで仕方のない現象というしかない。とはいえ、墓石に刻まれた家紋と名字を見比べていくと、そこには勝手次第に家紋を用いたとは思われないものがある。洞光寺の境内墓地にあった赤井家の家紋を見ると、戦国時代に黒井城に拠って明智軍に抵抗した赤井氏と同じ「結び雁金」紋であった。やはり、すべてとはいえないが、家紋と名字にはルーツにつながる名残があるように思えてくるのである。
小林寺でも、洞光寺でもそうだったが、古い墓石がピラミッド状に積まれ無縁簿墓あるいは古墓としてまとめて供養されている。古い墓地を整理しキレイにした結果だとは思うのだが、家の歴史、ひいては村、町の歴史が封じ込められてしまっているようで残念に思われる。しかし、古いものを整理していかないと、新しいものが生まれる余地もなくなってしまう。これも仕方のないことだが、残念なことには違いない。子孫が繁栄し記録が残っていく家はいいのだが、祀りが途絶えた家となれば風化していくばかりとなる。まさに、栄枯盛衰、諸行無常を実感するところである。