伊勢国司北畠氏ゆかりの地へ


中世、南伊勢では北畠氏が大名として威勢を振るった。 そもそも、伊勢北畠氏は南朝の柱石といわれた北畠親房の子孫で、親房の三男顕能が伊勢国司となっ て一志郡多気に城を築き、多気(多芸)御所と呼ばれたことに始まる。南朝の勢力が衰えてからも伊勢国に勢力を保ち、 戦国時代には大和にまで勢力を及ぼす戦国大名となったが、具教のときに織田信長の伊勢侵攻に抵抗して滅び去った。
また、伊勢北畠氏は土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏と並ぶ三国司大名の一に数えられ、戦国大名でありながら 公家の香りをまとう存在でもあった。 いまでも南伊勢には、北畠氏と一族ゆかりの場所がそこかしこに残され、どことなく雅さを感じさせている。


 
浄眼寺



応永二十二年(1415)、ときの国司北畠満雅が幕府軍を迎え撃った阿坂城址、水不足を 敵に悟られないように米で馬を洗ったように見せた白米伝説で知られる。その山麓にある曹洞宗浄眼寺は 満雅の孫政勝(政郷)が大空玄虎を招いて文明十年(1478)大空玄虎を招いて建立した古刹である。 禅寺らしい引き締まった佇まい、境内に足を踏み込むと本殿前の香炉には花菱紋、古い瓦にも花菱・桐紋などが見え、 北畠氏ゆかりの紋章が現代に伝わっている。
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●浄眼寺 ●香炉の花菱 ●古い瓦の花菱と桐紋 ●阿坂城址を遠望



木造から大河内



北畠氏からは大河内、木造、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称されて 伊勢の各所に城館を築いて中世を生きた。なかでも木造御所は北畠庶流の筆頭で、その官位は国司家をしのぐこともあり、 北畠本家と対立することが多かった。織田信長の伊勢侵攻に際して北畠氏は大河内城に拠って織田軍を迎え撃ったが、 木造氏は信長に通じて本家に敵対した。いま、大河内城も木造城もかつての戦乱の時代が嘘のように、静かな風化の波に 身を任せている。
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●木造城址 ●引接寺の割菱 ●大河内城本丸に祭祀される神社の並び矢 ●大河内城を遠望



多気界隈



北畠氏が本拠として多気には北畠顯能を主祭神に父親房と兄顯家を配祀する北畠神社、北畠氏が本城とした霧山城址、 北畠材親が建立した天台真盛宗の西向院、 さらに北畠氏ゆかりの史資料を展示する美杉ふるさと資料館など北畠氏のファンには見所がいっぱいだ。大河内城で 織田軍の攻撃を防いだ具教は、信長の子を養子に迎えて和睦を結んだ。しかし、ついに相容れることはなく、 天正四年十一月、具教はじめ北畠一族は信長に謀殺されてしまった。滅び去った北畠氏への愛惜の念からか、 多気は何となく寂しい心持に充たされてくるところだ。
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●資料館で ●北畠神社 ●本殿の割菱 ●西向院の寺紋