中世の大和武士-楢原氏の故地を訪ねる


大和平野の南西端に位置する御所市楢原、大和と河内を隔てる金剛山地東麓の長閑なところだ。中世、 大和国人の一人として勢力のあった楢原氏発祥の地で、いまも楢原氏の居館祉、詰め城跡、菩提寺であった九品寺、 楢原氏の祖という滋野貞主が祀られる駒形大重神社などが散在している。大和の戦国時代に思いを馳せるとき、 一度ならず訪ねたいところである。
楢原へは大阪を起点に国道309号線をひた走り、富田林、千早赤阪村、そして水越トンネルを抜け 大和御所へと一本道だ。 国道309号線は金剛山地を東西に横切る古くからの南河内と南大和を結ぶ街道で、最高所の水越峠は標高516メートルで ある。峠の名は金剛山北の谷水を峠を越して人工的に大和側に流していることから付いたものといい、かつては 河内側と大和側との間で水争いがあったことが記録などから知られる。水越峠の河内側山麓には建水分神社、 大和側山麓には葛木(葛城)水分神社が鎮座していることからも、金剛山塊が大和と河内の分水嶺として 古くから崇められていたことが理解できる。


 


河内側の建水分神社は崇神天皇の五年に創建されたといい、天御中主神を主神に天水分神・国水分神が祀られている。春日造りの本殿と流れ造りの左右両殿を渡廊で連結した建物は、神社建築としては全国唯一の形式で国の重要文化財に指定されている。古来、霊峰金剛山の総鎮守として崇められ、中世には南河内に勢力を張った楠木氏が氏神として崇敬を寄せた。境内に摂社として南木神社も祀られるており、神紋は楠木氏の菊水紋であった。水越峠を越えた大和側の葛木水分神社は、こちらも天水分神・国水分神も祭祀し、吉野・宇陀・都祁とともに大和四大水分社の一である。水分神社は全国に散在しているが、延喜式内では大和の四座と河内の建水分神社だけである。 そう考えると、にわかに金剛山が神秘性をいやましたような気がしてくる。
………
●建水分神社 ●楠木氏ゆかりの菊水紋 ●重文の本殿 ●葛木水分神社本殿




楢原は名柄交差点を左折、葛城一言主神社の案内板を越えたあたりだ。楢原は日本の原風景を思わせるところで、駒形大重神社の鳥居もなにやら古代を感じさせる。もっとも、楢原氏の始祖滋野貞主を祀った滋野神社に、明治40年に別々に祀られていた駒形神社と大重神社を合祀したということを知れば何やら味気ないが、 東方に広がる大和平野の景色とあいまって悠久の歴史を感じさせる風情ではある。
九品寺は彼岸花の名所として知られているが、すでに盛りは過ぎ、いまは紅葉の季節をまっているといった ところであった。九品寺は戒那山と号しているが、これは、かつて金剛山を河内側では篠峰、 大和側では戒那山と呼ばれていたことに因むもので、住職の方によれば金剛山を駆け巡る修験の寺であったという。 たしかに、九品寺の創建は聖武天皇の詔を受けた行基が開基、その後、空海が中興したという寺の歴史には密教の色彩を 感じさせるもがある。 戦国時代後期に浄土宗に改宗され、一帯を治めた楢原氏の庇護もあって寺勢は盛んであったようだ。
九品寺は石仏の寺ともいわれるように、境内のあちこちに石仏が祀られているが、本堂後方の千体石仏とよばれる石仏群は必見である。千体石仏は南朝に味方した楢原氏が北朝方と戦ったとき、地元の人たちが兵士たちの身代わりとして奉納したものという。見ると一体のものと二体のものがあり、聞けば二体のものは出陣する兵士が仏さまとみずからとを彫りおいたものといい、 戦場に赴く兵士の心のほどを偲ばせる石仏だ。
………
●駒形大重神社 ●秋色の大和平野を見る ●九品寺境内 ●千躰石仏群




九品寺の境内に置かれた古瓦には「丸に花菱」紋が刻まれており、本堂の扉にも「花菱」が彫られている。 一方、本堂脇の建物の鬼瓦には「抱き面高紋」が据えられている。聞くと櫛羅にあった代官所の 建物を移築したもので、瓦の紋は櫛羅代官のものという。花菱は由来は分からないが九品寺の寺紋で、 おそらく楢原氏の家紋ではなかったろうかとのことであった。
境内墓地の一角に残る楢原氏の五輪塔には花が手向けられ、寺院後方の山中には楢原氏の城址遺構が風化しつつ残っている。 しかし、楢原氏はその勢力を保つことができず、近世に背を向けるかのように楢原の地を去っていったという。 栄枯盛衰は世のことわりながら、 かつてそこにあった歴史を家紋・山城・古い社寺に見つけたときの喜びはひとしおである。
………
●本堂脇建物の瓦にみえる抱き面高紋 ●境内墓地に残る楢原氏の古墓 ●古瓦の花菱紋(右2点)