摂丹の国境に位置する能勢を訪ねる


能勢は大阪府の最北端に位置し「大阪のチベット」などと称され、北に連なる山々を越えると丹波に通じるところだ。 中世、摂津守に任じた源満仲の後裔多田源氏から分かれた能勢氏が丸山城(地黄古城)を築いて勢力を有した。 紆余曲折はあったものの能勢氏は、徳川旗本として生き残り、明治維新まで能勢を支配しつづけた全国でも 珍しい存在であった。
能勢氏が本拠とした「地黄」は、薬草の「地黄草」にちなんだもので、 平安時代、朝廷の典薬寮領の地黄御薗として薬草の貢献が行われたところであった。本能寺の変ののち光秀に与して没落した 能勢頼次は、関が原の役にさいして徳川家康に通じて旧領を回復できた。代々、法華経信仰の篤かった頼次は、 法華経の霊験を知り、京都本満寺貫首であった寂照院日乾上人を招いて無漏山真如寺を開き、 能勢妙見山は日蓮宗妙見信仰の中心となった。このようなことから能勢には正行山清普寺など日蓮宗寺院が多いという。 他にも、戦国山城である丸山城(地黄古城)、見事な石垣の地黄陣屋、推古天皇の御世に大和の石上神宮から 分霊されたのが始まりという野間神社など、能勢の町には見所が多い。


 


古くは布留社と称された野間神社は、平安時代、能勢採銅所の設置によりその鎮守社となり、 奉行として佐伯氏が神主をつとめ祭事を行ったという。その北方の小山にある丸山城址は中世能勢氏の本城で、 猪名川の塩川氏との抗争の舞台となったところだ。家康から能勢を安堵された頼次は新たに陣屋を築いたが、 それは、立派な石垣を持った城を思わせるものであった。戦国以来の仇敵塩川氏に備えたものといわれ、 事実、元和元年、豊臣方に与した塩川一族の攻撃を受けたものの、幕府軍の応援を得てよく撃退している。
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●野間神社の鳥居 ●本殿の矢筈十字 ●丸山城址紋 ●地黄陣屋の石垣




能勢を回復した頼次は、無漏山真如寺を開くなど日蓮宗に厚い保護を与えた。また、日蓮聖人の御真骨を安置  関西身延と称せられ、古来、妙見山、奥の院、真如寺の三カ所を唱題行脚することは、その功徳絶大とされ参拝の 善男善女は絶えることがないという。境内には日蓮宗の寺紋である「井桁に橘」、能勢氏の「矢筈十字」が そこかしこで目に入ってくる。
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●真如寺山門 ●幟の井桁に橘 ●浄水堂に浮き彫りされた「井桁に橘」と「矢筈十字」




真如寺の奥にある七面大明神堂は古くから女性の信仰を集め、幔幕には妙見を示す七曜紋が見える。 真如寺西方の山麓の正行山清普寺も日蓮宗の寺院で、頼次が父頼幸の菩提のために建立したものだ。境内には 能勢家代々の墓所があり、五輪塔、宝塔等か林立するさまは圧巻。また、本堂は日蓮宗方丈型のものとして 府内最古といわれる貴重なものだ。境内には日蓮宗に関わる「井桁に橘」「牡丹」の紋、墓所を 区切る白壁の瓦には「矢筈十字」が据えられている。能勢の町は文字通り、能勢氏の歴史が凝縮されたところだ。
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●七面大明神堂の七曜 ●清普寺 - 牡丹・矢筈十字・能勢家代々の墓所