多羅尾氏が支配した近江多羅尾を歩く


多羅尾は旧甲賀郡(現甲賀市)信楽町の南端に位置するところで、南は伊賀上野、西は山城相楽郡に接する山間の地で ある。いまでこそ山村に過ぎないが、古代には近江大津京の造営・遷都、山背恭仁(くに)京への遷都、 信楽宮の造営などに際して、多羅尾を通じる「御幸道」を人やモノが往来した。中世は近衛家の荘園となり、 職を辞した近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。のちに多羅尾を領した多羅尾氏は家基の孫という高山太郎師俊の子孫と伝え、 戦国時代は小川城に拠って勢力があった。
多羅尾氏は徳川家康の伊賀越えの難において、家康をよく保護して伊勢白子まで送り届けた。江戸時代になると、信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領代官に任じられ、屋敷内に設けた「代官信楽御陣屋」は、多羅尾代官所とか、天領信楽御役所と呼ばれた。 多羅尾を訪ねると、長閑な風景のなかに小川城址をはじめ現聖山大光寺・里宮神社など 多羅尾氏ゆかりのスポットが散在している。


 


小川城は信楽から多羅尾を経て伊賀上野に通じる多羅尾街道を扼する山上にあり、鶴見伊予守が築いた城といわれる。戦国時代、多羅尾氏はこの城に拠って勢力を伸ばし、家康を迎えたのもこの城であったという。多羅尾氏の祖ゆかりの現聖山大光寺は、行基の創建にかかる古刹で、本堂に飾られた幕には、近衛家ゆかりの牡丹紋が据えられていた。 本堂裏山の一角に、近衛家基・経平そして師俊三代の墓碑が立っている。
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●小川城址を遠望 ●小川城址に登る ●現聖山大光寺の山門 ●大光寺の寺紋




多羅尾光太が亡妻のために建立したという清龍山浄顕寺は浄土宗の寺で、鎌倉時代、法然上人が植えられたという菩提樹の樹が境内にある。また、境内の九体しかない「十王石仏」は家康が伊賀越えのとき一体を駕籠に乗せて自分の身代わりにしたため、 九体になったものという。
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●大光寺本堂裏山の近衛家墓碑群 ●清龍山浄顕寺 ●浄顕寺の寺紋 ●浄顕寺境内の「十王石仏」




浄顕寺近くの「里宮神社」は多羅尾の産土神でその祭礼は多羅尾の花取りと呼ばれるが、名前とは裏腹な 喧嘩祭で多羅尾の「祇園祭」としても知られたものだ。「祇園祭」といえば京の八坂神社だが、里宮神社の社紋を見ると 「横木瓜紋」で、八坂神社の「瓜紋」に通じるものであった。多羅尾はまことにのんびりとしたところで、 中世の世界に迷い込んだかのような錯覚にとらわれる。 一つ残念だったのは、多羅尾陣屋が公開されていなかったことだ。多羅尾の歴史に触れるうえで中核となる場所であり、 遠目に見たところ立派な石垣も残っている。いつか、公開される日がくることを期待している。
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●里宮神社 ●里宮神社の社紋 ●多羅尾陣屋址