八上城は、応仁の乱後、幕府管領で丹波守護の細川政元から丹波・多紀郡を与えられた波多野秀長が、
朝路(高城)山の麓に「蕪丸城」を築いたのが始まりで、秀長は出身地である因幡の八上にちなんで八上城と名付けたという。
永正五年(1508)、秀長の子秀忠が朝路山に陣地を構え、以後、波多野氏の盛衰はあったが丹波有数の城郭へと整備されていたった。
天正三年(1575)、織田信長の部将明智光秀が丹波に侵攻、波多野氏は氷上の黒井氏らと結んで抵抗を示したが、天正七年、
波多野氏は光秀の和議に応じて謀殺され、八上城は陥落した。
八上城へは城下町のあった奥谷側からが大手道といわれるが、春日神社近くの主膳屋敷跡から本丸を目指す。整備された道をひたすら登ると、
曲輪跡、堀切が散在し、本丸城門跡からは遠く松尾・白髪岳が見える。
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