篠山の歴史・見処を訪ねる-火打岩


新金峰山大岳寺址



篠山川方面より多紀連山を遠望


山岳仏教が盛んであった頃(平安時代〜室町末期)、大和国吉野山に役の行者(小角)が創建した天台宗の 金峰山寺が大峰修験の本山とされていた。大岳寺は役の行者が全国を巡ったとき三岳に建立したものと伝えられ、 三岳連山を行場とする三岳修験の中心となった寺である。
かつて三岳は「藍婆ガ峰」と呼ばれ、御嶽を主峰として東の小金ヶ嶽、西の西ヶ嶽を併せて三岳三山という。 藍婆とは仏教において悪魔の意で、この悪魔を征服する意味を込めて三岳修験は始まったらしい。 その始まりは役の行者を開祖としているが、 実際のところは十二世紀のはじめ鳥羽天皇の時代であろうと推測されている。


鳥居堂址  水飲み場と不動明王  三岳寺へ  三岳寺址と説明板


往時を物語る礎石  僧坊址であろう削平地  僧坊址と登山道  削平地が随所に残る


山腹に祀られた石仏  山上の行者堂  行者堂に祀られる役の行者像  小金ヶ嶽を遠望


多紀郡は郡全体が山に囲まれていることから、はやくより多くの寺院が建立され、各地にかつての寺院址が残されている。三岳にも大岳寺をはじめ、福泉寺・楞巌寺・豊林寺・金輪寺・西光寺・東明寺など十二ヶ寺が点在したという。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮をおかれたことから、吉野地方は戦乱の地となり、武家方の攻撃を受けるなどして大峰山は衰退していった。 一方の大岳寺は活況を呈して僧兵を養い、三岳連山修験道はおおいに繁栄した。
三岳修験の繁栄をみて危機感を深めた大峰修験は、大峰への登山を催促したが三岳が応じなかったため、 文明十四年(1482)の始め、吉野蔵王堂の坊頭主鬼が率いる山伏300人が攻め寄せてきた。三岳の僧兵たちは、 新庄宮ノ谷で吉野勢を迎え討ったが破れ、ついに一山ことごとく焼亡し三岳修験は衰退してしまった。その後、 細々ながら三岳修験は復興されたが、大岳寺は再興されることなく遺跡は山中に埋もれたままとなっていた。 その後、寺屋敷址といわれていたるあたりに、かずら石らしいものと径60センチくらいの礎石が約20個発見され、 たがいに2メートル間隔で二列に平行していることから大岳寺跡として確認された。
大岳寺へは火打岩から御嶽へと通じる登山道があり、四季を通じて格好の山歩きコースとなっている。コースは火打岩からの急坂を登り、丸山との分岐を過ぎると穏やかな尾根道となり、馬の背と呼ばれる細尾根を越え、かつて鳥居堂があった鳥居堂址、水飲み場(閼伽井)の三叉路を経て大岳寺へと至る。さらに登山道は大岳寺址から御嶽山上へと続き、石仏や僧坊跡があったと思しき平坦地が散在する。山上には三岳を開いたといわれる役の行者を祀った三岳行者堂があり、かつて三岳で行を重ねた多くの修験者たちの祈りが充満しているのだろうか、 なんともいえない鬼気迫る雰囲気が漂っている。
大岳寺跡は案内板がなければ気づかずに通り過ぎてしまいそうなところだが、かつて僧坊があったことが見てとれる 地形が残り、役の行者(聖様)が錫杖を突き立てたとき噴出した泉といわれている水飲み場にはいまも水が湧き出して いる。栄枯盛衰、大岳寺は大峰の攻撃を受けて滅亡したが、その繁栄の跡はいまも三岳一帯に色濃く残されている。 また、かつての鳥居堂は寺内の大売神社の境内へ移して再興され、小原の大日堂の本尊大日如来像は三岳修験道の表行に 際して最初に詣でた八ヶ尾山の大日ヶ尾にあったものを移したという。ほかにも篠山一帯には大岳寺(三岳修験道)に関わる仏像や ゆかりの品々が伝来しており、それらを訪ねて歩くのも楽しい歴史散策になるだろう。

写真:大売神社に残る鳥居堂
・2007-12/01
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多紀連山/ 福泉寺址