小谷池を見下ろす高台に並び立つ墓石
いずれの墓石にも後藤又兵衛子孫と刻まれている
妙福寺墓地にのこる後藤家墓所
戦国時代末期の豪傑として知られる後藤又兵衛(基次)は、黒田官兵衛(孝高・如水)に見出され、
黒田家中においては母里太兵衛と並び称される武将であった。しかし、如水のあとを継いだ長政とそりが合わず黒田家を退散、
慶長十九年(1614)、大坂冬の陣が起こると大坂方として大坂城に籠城、鴫野・今福方面の戦いに活躍した。
翌元和元年、夏の陣には大和路方面に出陣、河内道明寺の戦いで戦死した。ほどなく大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。
豊臣氏を滅ぼした徳川家康は大坂城を再建すると西国統治の拠点とし、信頼する譜代大名を大坂城代として配した。
城代は大坂地方における幕府役職の主席で、初代は内藤信正が務め、大坂城の警備、西国大名の監視などにあたった。
寛永二年(1662)、十三代大坂城代に抜擢されたのが青山宗俊であった。宗俊は父忠俊が将軍家光の勘気を受けて蟄居したとき、
父とともに相模国高座郡に蟄居した。その後、許されて旗本として再出仕、やがて三万石の大名へと返り咲いたのである。
大坂城代になったことで二万石の加増を受けた宗俊は、新たに家臣を召抱えた。そのなかに後藤又兵衛基次の曾孫にあたる
後藤基利・利政の兄弟がおり、百五十石の物頭として青山家中に列なったのである。
その後、寛延元年(1748)、青山忠朝の代に丹波篠山に移封され、後藤氏も篠山藩士として篠山に移ってきた。後藤氏は西岡屋の小谷池の開拓に関与し、死後、小谷池を北に見下ろす地に葬られたのであった。墓石を見ると、右側が「後藤浄入:安永八年(1780)卒」左側が「後藤正信:寛政十二年(1801)卒」と刻まれ父子であるという。正信後の後藤氏の墓所は西町の妙福寺にあり、いまも寺院墓地の一角に古びた墓石が並び立っている。
墓所に参ったあと「後藤氏の家紋は?」と、墓石を見直したが発見することはできなかった。
撮影:2009年5月28日
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