住吉台から城址を見る(2008年8月17日)
大沢城址への急坂 ・ 城址東北の曲輪に ・ 堀切 ・ 主曲輪東北端の切岸
主郭の切岸 ・ 腰曲輪 ・ 腰曲輪から主郭を見る ・ 城址西方の細尾根道
大沢城址は多紀郡西部に勢力を持った酒井一族の一家初田酒井氏が拠った城址だ。戦国時代の永禄年間、初田酒井和泉守豊教が築いたもので、豊教は油井・当野などの酒井一族とともに八上城主の波多野氏に属した。城址は篠山口駅西方に見える山上にあり、摂津、播磨への押さえとして、後方の高仙寺山城を後ろ盾とした要害であった。
城址は「大沢ロマンの森」の一角にあり、山麓の大沢八幡宮から山道が続いている。途中の禄庄城址を経て尾根を登っていくと東北の曲輪にたどり着き、堀切を越えると主曲輪となる。主曲輪の中央部の一段高くなったところが主郭で、主曲輪の北側には腰曲輪が設けられている。規模としては大きくないが、尾根を押さえ、東北の禄庄城、谷を隔てた北方の佐幾山砦と三角形を構成、味間方面への防御を意識した造りとなっている。また、西方の尾根続きに高仙寺山城と通じており、その立地もあって攻め難い山城である。
天正年間、明智光秀の丹波攻めに際しては、豊教の嫡男勘四郎氏武が波多野氏に属して明智軍に対した。しかし、天正六年六月、明智軍の攻撃を受けて落城、城跡から焼き米が出たことから「焼け城」とも呼ばれるようになった。落城のとき勘四郎は高仙寺山城に奔り、天正七年五月、八上城が落ち波多野氏が滅亡したのち光秀に従ったという。その後、山崎の合戦に明智方として出陣したが敗戦、明智左馬介に従って坂本城に向かう途中に近江勢田で討死したと伝えられている。
写真/勘四郎を祀る酒井神社(左の祠:初田八柱神社境内)
・登城:2008年7月13日
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大沢城址再訪
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