篠山の山城を探索する-市原城山


市原城址



北方、西光寺山の麓から城址を遠望 (2009年6月24日)


戦国時代、今田一帯を領していた小野原氏が築いた城で、『篠山領地誌』には「小野原采女が築いた城跡は市原の北西の山上にある、縦二十二間、横十八間。采女は掃部の長男で、小野原を領していたが、天正年間に戦死した。詳しいことは明らかではない」とある。中世、今田一帯を領した小野原氏は、木津、市原に城を築いて八上城主波多野氏に従っていた。『籾井日記』によれば、采女は天正三年(1575)、亀山城の戦に奮戦、翌年、波多野氏と明智光秀が戦った桂川の戦いにも出陣、活躍したという。なかなかの勇将であったようだ。



登り口の赤鳥居 ・ 南端の削平地(三の曲輪)に到着 * ・ 三の曲輪から二の曲輪を見上げる *



主郭部を見上げる ・ 主郭への石段 * ・ 山上の城山稲荷 ・ 主郭からの遠望 *



山麓の居館址を思わせる台地 ・ 階段状の地形は家臣の屋敷跡か? ・ 西方寺の山茶花越しに城址を見る(20081221)


天正七年、八上城が落ち波多野氏が滅亡すると、小野原一族は豊臣秀吉に仕えたらしい。そして、文禄・慶長の役には朝鮮に出陣した。その折、城内に祀る稲荷神社に戦勝祈願したところ神徳著しく、無事に帰還できたという。それが由縁となって、明治時代より戦前まで、この稲荷は徴兵逃れの神様として信仰を集め多くの参拝者で賑わった。
さて、城址は山茶花の大木で知られる西方寺後方の城山山上にあり、城山稲荷の祀られている部分を主郭として南西尾根に曲輪が築かれている。主郭の石垣は近世に築かれたものであるが、地形そのものは小野原氏時代の姿を伝えていると思われる。主郭を中心に北・東・南は急傾斜が天然の防御をなしている、西側に続く尾根には堀切は切られていず、全体として旧式で単純な縄張りである。山麓の稲荷鳥居の西側にある台地は東南角部に石積みらしき跡が残り、小野原氏の下館跡を想像させる。
朝鮮から帰国したのちの小野原氏の動向は、まるで掻き消えたかのように遥として知れなくなる。すでに、江戸時代初期の時点でその詳細は不明となっていたようで、地元にも小野原氏に関する伝承は残っていない。なんとも幻のような話だが、城山に残る城址だけが小野原氏の存在を語っている。 また、山麓には酒造出稼ぎの解禁を江戸に直訴し、生活に苦しむ農民の救済に命をかけた義民清兵衛の碑がある。 丹波杜氏の歴史を語るところとして、併せて訪ねてほしい。
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一年後に再訪したところ、山麓の赤い鳥居がなくなり石の鳥居に新築する工事が行われていた。 赤の鳥居は稲荷神社にふさわしいものだっただけに、「何故、赤の鳥に再建されなかったのか?」と、ちょっと残念な気もした。

・山麓にある義人清兵衛の顕彰碑
・登城:2008年6月13日→2009年7月4日 *