篠山の山城を探索する-東吹


吹城址



お菓子の里越しに城址を遠望



東山と西山を隔つ堀切 ・ 東曲輪(水道施設) ・ 東曲輪北側の竪堀 ・ 腰曲輪



東曲輪と主郭を隔つ堀切 ・ 主郭へ ・ 主郭西方切岸と西の曲輪 ・ 切岸の大石



西曲輪の腰曲輪を囲む土塁 ・ 登り土塁 ・ 西曲輪切岸と腰曲輪 ・ 最西端のトーチカ状堀切


吹城は舞鶴道の丹南篠山ICを出て、篠山方面に走ってすぐの東吹交差点北東にみえる山上にあった。城址は西城山と東城山に築かれ、ちょうど瓢箪形になることから瓢箪丸とも呼ばれている。主体となるのは西城山で、最高所の主郭を中心に東、西、南の尾根に曲輪を設けた連郭式の縄張りで築かれている。『丹波志』によれば、城主は八上城主波多野氏の重臣であった井関氏と伝えられている。井関氏の出自は不詳だが、享禄二年(1529)に井関秀次が土佐大夫少将監にあてた書状、 同四年に酒井孫二郎にあてた方外庵知行文書、永禄七年(1564)に波多野元秀が和田寺に宛てた文書に 井関越中守が登場するなど、井関氏は吹城主として、飛の山の渋谷氏、大沢城の酒井氏らとともに八上城波多野氏の西の固めに努めたようだ。
西城山の遺構は、主郭を中心に現在水道施設が建設されている東曲輪、西曲輪の三つに大別され、東曲輪と主郭の間には大堀切が切られ、要所に竪堀が切られている。主郭と西曲輪は高い切岸で隔てられ、西曲輪の西端にはU字状に土塁が築かれている。さらに、西曲輪の西方直下には塹壕状の堀切が設けられるなど、狭山市内でも先進的な技術で築かれた城址だ。明智光秀の丹波攻めに際しては酒井氏と連携して抵抗したが、光秀側が築いた付城である網掛城などによって連絡を断たれ天正六年、明智軍の攻撃によって落城した。城址へは西城山と東城山の間の堀切を切り通しにしたという山道より水道施設へ登山道があり、西曲輪はともかくとして主郭・西曲輪は保存状態もよく、 堀切・土塁・切岸など戦国山城の醍醐味を味わえる城址だ。
・登城:2009年8月23日