篠山の山城を探索する-辻


南山城址



国道372号線方向から城址を遠望(手前の山上)



山麓の大仙寺 ・ 堀状の登り道 ・ 城址に続く竪堀 ・ 西の腰曲輪へ



北腰曲輪と主郭切岸 ・ 北の虎口 ・ 段状の曲輪群 ・ 石垣址か?



主郭西に残る石組遺構 ・ 南端の掘切 ・ 南端尾根の土橋状地形 ・ 館址か?山麓の広い削平地


城址は弥十郎ヶ岳から北に伸びた尾根先にあり、辻一帯を支配した波々伯部一族の居城祉という。 波々伯部氏系図を見ると、次郎左衛門光朝の次男光尚のところに辻村南山城主とあり、 応永年間(1394〜1427)のころに城は築かれたようだ。波々伯部氏は淀山城を主城として、東山城・畑市城 、そしてこの南山城などに一族が割拠して戦国末期まで勢力を保った。
は最高所に主郭を設けた城址は、背後の南尾根を堀切で穿ち、北側尾根へと階段状に曲輪が築かれている。 小ぶりな縄張りだが、主郭の堀切側には櫓台を兼ねたと思われる広い土塁があり、土塁の西北部には石垣が 遺構があり、土塁根元には崩落した石垣が散在している。樹木に覆われた城址からの展望は利かないが、北方には淀山城址、東方には東山城址が位置しており、福住方面から篠山盆地に侵攻する敵軍を三城 で迎撃する体制にあったことが実感できる。
かつて山麓には波々伯部氏の菩提寺であった安養寺址があり、五輪塔群の発掘調査で古丹波の骨蔵器が 発見されるなど、波々伯部氏の歴史をいまに伝えている。寺址にあった五輪塔群はこれも山麓にある大仙寺に 移動されてピラミッド状に祀られているが、できうれば安養寺址に戻されて往時の姿を再現できないものだろうか。 安養寺址を史跡とするうえからも、それがあるべきことと思われるのだが…。
大仙寺の一角に改葬された旧安養寺址にあった五輪塔群
・登城:2009年8月24日