篠山の山城を探索する-波賀野字北ノ前


波賀野城址



デカンショ街道から城址を遠望(20091003)


城址はJR古市駅の北方、旧丹南町西南部の波賀野集落と見内集落の間にある小山の山上にある。『丹波志』によれば、永禄年間に落城したと記されている。当時、八上城主波多野氏は三好長慶と対戦中で、波多野氏に属する矢代酒井党の三郎四郎氏吉が、摂津方面から北上してくる敵勢に備えるため弟右衛門兵衛をして築かせたという。 矢代酒井党の本城は矢代城であり、北に大沢城、南に波賀野城を築いて篠山盆地の南西部を固めたものであろう。



山麓の稲荷神社 ・ 登り口 ・ 神社裏の堀切 ・ 城址東尾根の削平地



城址東南の堀切 ・ 主郭虎口と腰曲輪 ・ 東腰曲輪 ・ 北東の虎口?



主郭から南西曲輪 ・ 主郭切岸と北西腰曲輪 ・ 北西端の土橋と堀切 ・ 城址から当野方面を見る


城址へは東山麓にある稲荷神社方面の鉄塔保全用の登り道を利用し、尾根を西進すれば出曲輪と思われる削平地があらわれ、曲輪群南東に穿たれた堀切にたどり着く。堀切を登ると、主郭東を取り巻く曲輪で、北方尾根側に虎口がある。城址は東西に長く、西方に階段状の曲輪、その北側に腰曲輪が設けられ、南西尾根にに小曲輪が階段状に築かれている。そして、南側に続く尾根先を土橋付きの堀切で防御している。曲輪は雑木で覆われているが、木の間より北東を見ると古市から矢代方面、真東の山上には栗栖野酒井氏の栗栖野城址、東南方向には当野集落が見渡せる。 波賀野城址が矢代酒井党の南端を守る城として、格好の地を占めていることが実感できる。
城主の右衛門兵衛は永禄三年(1560)に香西越後、波多野右衛門らとともに京都の宇治五個荘に出陣、木幡の戦いで戦死したと伝えられている。その後も矢代酒井党の南の防御を担い、 酒井党が明智軍に抵抗して壊滅するまで機能したものと思われれる。
・登城:2009年9月21日