篠山の山城を探索する-福井字阪本


豊林寺城址



櫛石窓神社方面から城址を遠望(20091028)


豊林寺城の址は、篠山市街東方の福井集落にある古刹玄渓山豊林寺後方にある標高527メートルの山上にある。かつて福井一帯は櫛石窓神社を本家とする大芋(おぐも)荘で、大芋は大雲とも書かれる。中世、絵所土佐家が預家として実質的な領主であったが、南北朝のころより久下氏などが押妨し室町幕府は土佐行光に変換するように命じている。その後も大芋荘は武家の押妨にさらされたが、戦国時代まで土佐家領として存続している。
この大芋荘から起こった国人領主が大芋氏で、丹波守護細川氏の被官として勢力を伸ばしていった。応仁の乱にも細川氏に属して出陣したようで、乱後に成った家紋集『見聞諸家紋』には大芋氏もみえ紋は「並び雁に菊水」が記されている。大芋氏は荘内の地侍や名主などと姻戚関係を結んで的同族武士団(党)を結成、豊林寺の寺庵とも深い関係があったようだ。そして、大芋党の拠点となったのが豊林寺城で、室町時代のはじめ応永年間(1394〜1428)に大芋式部丞が築いたと伝えられている。代々大芋氏は細川氏に仕え、戦国時代の兵庫助慶氏は細川高国から所領安堵状をもらっている。



豊林寺後方の登り口 ・ 僧坊址に立つ御堂 ・ かつての僧坊址 ・ 谷筋をひた登る



東端の曲輪切岸 ・ 西曲輪へ ・ 主郭切岸と腰曲輪 ・ 主郭西南の段状曲輪



西曲輪北側の竪堀 ・ 主郭北西の段曲輪 ・ 東北端尾根の堀切 ・ 朽ち果てつつある山麓の祠


城址への登り道はなく、南方の豊林寺側の尾根から取り付き急坂を登ることになる。豊林寺後方の谷にはかつての僧坊址という削平地が連なり、尾根を隔てた東方の谷にもかつての屋敷址であろう削平地が残っている。城址遺構は山上の電波中継施設を中心として東西に続く尾根上に曲輪が確認できる。東側が主体で広々とし主郭を中核に、腰曲輪、段状の曲輪、竪堀が設けられている。西方の尾根先の曲輪には三角点があり、東南部に腰曲輪、さらに尾根筋に堀切が切られている。堀切の先に続く尾根の高所にも出曲輪が築かれ、 東方の防御と見張り台としての機能をはたしていたようだ。
城址一帯は樹木に覆われて視界は利かないが、かつては福住から園部に通じる街道を東方に見下ろし、北方に八ヶ尾山、東方に雨石山・櫃ヶ嶽、西方に小金ヶ嶽から三岳が見通せる要害の地であった。戦国時代の末期になると大芋氏に代わって森本氏が城主であった。豊林寺城の東方尾根先には森本氏の福井城址があり、居館址も残っている。おそらく大芋宗家は乱世のなかで没落し、 森本氏が大芋党の中心的存在になったものであろう。
山城好きならば豊林寺と併せて福井城、川向こうの中村城を訪ねることも可能だ。歴史好きの向きには、豊林寺、櫛石窓神社をジックリと散策するというのも楽しいことだろう。豊林寺城界隈は古代から中世、 戦国時代までの歴史が感じられるところである。
・登城:2009年9月27日

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53次・玄渓山豊林寺と豊林寺城跡