篠山の山城を探索する-藤坂字大谷山


白藤城址



南側から藤坂川越しに城址を遠望(20080503)


篠山市街北方、北に船井郡、西方に氷上郡と接する藤坂集落がある。城址は藤坂集落の鎮守春日神社から北西に約1キロ、弓谷峠にかかる手前北の山に残っている。戦国時代、大芋衆の一人として活躍した中馬氏が築いたものと伝えられ、船井郡、氷上郡に通じる街道を押える格好の地にある。いまも、山上には曲輪、堀切、土塁などが残り、南麓には後裔にあたるという中馬家の屋敷がある。
中馬氏は新田氏の後裔といい、室町時代はじめの明徳年間(1390〜94)、新田義貞の弟脇屋義助の子尾張守義治が丹波に来住したことに始まるという。義治は義貞の子義興・義宗らとともに足利尊氏と戦ったが、義興・義宗が相次いで討死にしたのちは出羽、信濃と流れ、ついに丹波へと流れてきた。丹波には新田一族である江田氏・大館氏らが勢力を保っていたこと、丹波守護であった山名氏が明徳の乱で勢力を失ったこと、さらに、南北朝合一がなったことなどが相俟って丹波移住を決意させたのであろう。『丹波志』などによれば、義治から四代目の右近之進義貢は新田から中馬と改め、藤坂に新たに館を構えた。 そして、義貢の孫越前守治秀が、元亀元年(1570)に館後方の山上に築城したとされる。


山頂部

北尾根の堀切 ・ 堀切は二重 ・ 北曲輪先の堀切 ・ 北曲輪東側の土塁

北曲輪の竪堀 ・ 主郭切岸と腰曲輪 ・ 主郭から曲輪を見下ろす ・ 主郭東切岸と曲輪


城址は山頂の曲輪と西尾根先の曲輪で構成され、山上氏の中村城址と同様の二段式の詰め城形式である。 主体は山上の曲輪で、高所の主郭を中核に東に段状の曲輪を設け、北尾根に土塁でまいた口ばし状の腰曲輪、 南西部に小腰曲輪が築かれている。北端の尾根先には二重に堀切が切られ、北曲輪の両側に竪堀が落とされている。 北方尾根からの敵襲を意識した縄張である。 全体に曲輪の削平は甘いが、東尾根の段構え、西側の切岸はよく残っている。


尾根部

東尾根の堀切 ・ 塹壕状の空堀と土橋 ・ 主郭切岸と曲輪 ・ 西端の曲輪


西尾根先の曲輪は、山頂の曲輪に続く東尾根側に大堀切を切り、ついで高土塁を築き、塹壕状の空堀を設け、土橋で西側に続く曲輪と連絡している。曲輪は尾根先へと数段連なり、さらに西尾根に小曲輪を階段状に築いている。構造的には東尾根の遮断を強く意識した縄張りで、 東部の塹壕状の空堀→高土塁→大堀切と続く遺構は見応え十分のものだ。
白藤城址は小ぶりな城で、城址へも簡単にたどり着ける。しかし、山頂曲輪は雑木と倒木に覆われ、 西尾根曲輪は矢竹とブッシュがすごい。山頂曲輪と西尾根曲輪を連絡したであろう道もすでになく、 城址の探索は一筋縄ではいかないが、堀切・竪堀・土塁など見るべきところの多い城址ではある。 ・登城:2009年10月28日
・図は国土地理院の二万五千分の一の地図をベースに『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』 掲載図を組み合わせて作成しました。

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53次・白藤城跡