篠山の山城を探索する-畑市字平内丸


平内丸址



東曲輪より北方雲部方面を遠望


篠山盆地は北に多紀連山、西方に松尾山・白髪岳、そして南東に弥十郎ヶ岳と周囲を山々が取り巻いている。平内丸は弥十郎ヶ岳の西に伸びた尾根先、標高617メートルの尾根部に遺構が残されている。城主は篠山盆地東方の辻を中心に一勢力を張った波々伯部氏の一族、波々伯部平内と伝えられている。波々伯部氏は淀山城を本城として東山城・南山城・畑市城などの城塞群を築き、 八上城主波多野氏に属して明智光秀の丹波攻めに抵抗した。
城址は東と西の曲輪に区画され、全体に削平も甘く臨時的色合が強いものである。平内丸は別名「火とぼし山」とも呼ばれることから、狼煙をあげる城砦であったとも思われる。 いずれにしろ、よくぞ、このような高所に城を築いたものと驚かされる。


弥十郎ヶ岳との分岐(畑市より) ・ 弥十郎ヶ岳北尾根 ・ 尾根を下る ・ 城址東端の岩壁


東曲輪へ ・ 堀切を見下ろす ・ 東曲輪西端下の腰曲輪 ・ 主郭に続く尾根


主郭西端の切岸 ・ 主郭西端下の横堀 ・ 西尾根から木の間越しに弥十郎ヶ岳 ・ 西尾根中腹より八上城址を見る


城址遺構は雑木に覆われているが木の間越しに八上城祉が西方正面に見え、北方は眼下に京街道、 さらに細工所から大芋までが一望できる立地にある。全体に自然地形に近いが、東曲輪直下に堀切が切られ、 主体部である西曲輪の周囲の切岸は高く、西方直下には横堀が穿たれている。
城址へは北方の畑市と辻から山道があり、南西は吹越峠を経て四十九院と通じている。また、弥十郎ヶ岳の南方にハハカべ山があることから、波々伯部氏は古くより弥十郎ヶ岳の尾根道を摂津方面との往来に活用していた。やがて、明智光秀の丹波攻めが開始されると、四十九院の僧たちの協力をえて、八上城の波多野氏とをつなぐ軍用路とした。そして、平内丸はそれらのつなぎの拠点として築かれ機能したのではなかろうか。 ちっぽけな城砦だが、あれこれと想像をかきたてられるところである。
・登城:2009年10月10日