篠山の山城を探索する-藤坂字峠


藤坂(八ヶ尾)城址



東多紀アルプスの毘沙門山から八ヶ尾山を遠望


藤坂城は篠山市の東方を走る国道173号線の福井交差点を綾部方向に北上すると、 すぐ左手前方に見えてくる八ヶ尾山上にあり八ヶ尾城址とも称される。 八ヶ尾山は中世、多紀連山と呼ばれる御嶽・小金ヶ嶽などを修行の場とした丹波(三岳)修験道の山々の東端に位置し、 むかしから修験者の往来するところであった。
戦国時代、多紀郡は八上城を本拠とした波多野氏が支配するところであったが、天正年間、丹波制圧を企図する 織田信長の命を受けた明智光秀との間で合戦が繰り広げられた。天正五年(1577)、波多野氏の支城群を攻略した光秀は 夜討ち用心のため井尻信濃守を奉行として、明智方に降った大芋・山内・須内氏らに命じて八ヶ尾山上に城砦を築かせた。 八ヶ尾山の東山麓に位置する小原・藤阪の地は、多紀郡北部における交通の要衝の地であり、 山上の城址に立つと西方には多紀連山、東方に雨石山から櫃ヶ嶽、北方には京都船井郡の山々、 南方には波多野氏の拠る八上城址と弥十郎ヶ嶽から深山、さらに松尾山・白髪岳までが一大パノラマ風景で広がる。 文字通り多紀郡一帯を眼下におさめる絶好の場所である。


登り口の弁天様 ・ 二億五千万年前の岩が連なる登山道 ・ 山上の城址へ(右端)


城址へは、東山麓のイヤ谷から八ヶ尾山北尾根へといたる道が大手であったようだが、西方の 三岳方面からも修験の道が八ヶ尾山上まで続いている。また、南山麓にある弁天様の祠からも、 岩の間を縫うように登山道がある。いずれのコースも峻険な道ばかりで、山上からの素晴らしい眺望、戦略上の要地と いう立地から城を設けるにはうってつけのところであろうが、 よくぞこのような場所に築いたものと驚かされる。


主郭の三角点(後方は多紀連山) ・ 真新しい祠 ・ 南西の帯曲輪と主郭 ・ 眼下に小原・大芋方面を遠望


主郭から北方を見る ・ 主郭北端の切岸 ・ 北曲輪から主郭 ・ 主郭西の帯曲輪



見事な山上からの眺望
雨石山・櫃ヶ嶽を見る ・ 重畳たる山々の向うに八上城址 ・ 西方に連なる多紀連山 ・ 豊林寺城址と遥かに見える深山


城址は山頂の主郭を中心として周囲を帯曲輪が取り巻き、北方尾根に削平地が梯郭式に連なっている。 主郭と北曲輪を区画する切岸を除けば、全体に切岸は甘く、ほとんど自然地形のままである。また、土塁・竪堀 といった防御施設もなく、尾根には堀切も切られていない。おそらく八ヶ尾山の岩場が自然の防御をなしたこと、 多紀郡一帯への見張りを目的として築かれた臨時的な城砦であったことから防御的技巧を伴った複雑な縄張は 必要とされなかったのだろう。
天正七年(1579)六月、波多野氏は光秀からの降服勧告をいれて城を開き、丹波の戦国時代は終焉を迎えた。 波多野氏の滅亡とともに藤阪城もその使命を終え、以後、顧みられることもなく山上で風化していった。 かつて戦国武士たちが、山上の城砦より油断なく四方に目を光らせていただろう名残は一切ない。 主郭の片隅に小さな祠が祀られ、何故か四隅を削り落とされた三角点が風雨に晒されているばかりである。
・登城:2010年01月29日(晴)

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八ヶ尾山に登る