稲 紋
古代より、熊野神に奉仕した穂積氏から分かれた、
熊野神社神官鈴木氏の代表紋である。
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抱き稲の輪 |
丸の内抱き稲 |
一つ稲丸 |
包み稲の丸に三本足の烏
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古代、日本は稲作農業普及の時代といえるかも知れない。採集中心の社会から、食糧を備蓄できる農業(稲作)の普及によって社会は大きく変革をしたことだろう。しかし、稲作は自然に左右されることから、神を祀り、無事に育ち豊作となることを祈った。
そして、無事に収穫を終えると稲を高く積み上げて神に捧げた。そこには神の依代となる高い柱が立てられていたことだろう。神は高いところに降りてくると信じられていたからだ。そして、稲穂を積んで神に捧げたことから穂積の名字が生まれた。さらに穂積氏からは、榎本・宇井・鈴木の三氏が分かれた。
【写真:秋の実りを感じさせる青田の稲穂】
なかでも鈴木氏は、熊野神に奉仕しながら他の二氏を圧倒して、全国に広まっていった。中世、熊野神は霊験あらたかな神として上下の崇敬を受け、熊野神が各地に進請されるに連れて、鈴木氏も各地に広まったということである。いまでは、全国200万人ともいわれる屈指の大姓となった。
鈴木氏の家紋が、稲紋である。これは、先祖の神事を伝えるものであり、熊野神に奉仕する家としてまことに相応しい紋といえよう。とはいえ、古代以来の伝統ほ誇る氏だけに、稲紋以外にも使用する紋は多い。
主なものを挙げると「藤の丸」「洲浜」「三本足の烏」などがある。藤の丸は熊野三山の初代別当となった藤原氏、洲浜は熊野三山の奥院とされる玉置神社の神紋、烏は熊野神社の神使として知られる。このようにいずれも熊野縁りの紋ばかりである。
●烏紋
戦国時代、雑賀鉄砲集団を率い、織田信長を敵に廻して頑張った雑賀孫市も本姓は鈴木氏であり、その幕紋は三本足の烏であった。
→那智烏
いまでこそ烏は縁起の悪い鳥として忌み嫌われているが。古代中国にあっては、太陽の中に住む鳥として尊敬され、
日本でも予言を伝える鳥として尊敬されていた。熊野神以外でも烏を神使とする神社は多い。
また、中世において起請文として使用された熊野午王宝印にも烏が刷られていたことはよく知られるところだ。
近年、ワールドサッカーに出場した日本チームのマスコットキャラクタになったことでも有名になった。
烏を縁起が悪いとして、家紋を変えた家もあるという。現代ではやむを得ないことではあるが、古代より霊鳥として尊ばれ、霊験あらたかな鳥でもあったものを別のものに変えたというのは、紋の由来を忘れてしまった、まことに残念なことではある。
ところで、赤い鳥居で知られる稲荷神社も「抱き稲」が神紋である。稲荷とは「稲生り」のことで、穂積氏のいわれと同じで農業の豊作を祈ったものに他ならない。いまでは、商売の神様としての方が有名になってしまったが。
いまでも、「抱き稲の中に三本足の烏」を家紋として使用されている鈴木氏があるという。家紋としてこれほど、
家の歴史を伝えるものはないといえよう。これからも子々孫々に至るまで、大切に伝えて欲しいものである。
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亀井氏 |
鈴木氏
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どのような意味が隠されているのでしょうか。
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