轡 紋
むかし、武人にとって弓馬の技は必須であり、
馬具には尚武的な意義が込められて家紋となった。
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轡(クツワ)は馬の口に含ませ、手綱をつけるための金具であり口輪から転化したものと考えられる。馬具としては、馬の口に「ハミ」という金具をはませ、その両端につけた手綱をもって馬を操った。ハミの両側は手綱の引き手の金具(轡の鐶)となり、おもがい(馬の頭部から轡にかけてつける革紐)を受けるものなので、大きくし、カタチもいろいろで形や文様にさまざまな技巧が凝らされた。
轡の鐶の形には、時代によって変化があり、奈良時代頃にはS字形の「唐ぐら轡」、浜菱形のうばら轡」、平安時代になると、「杏葉轡」「十文字轡」などが用いられた。轡紋はこの鐶を紋章化したものである。図柄としては丸のなかに十字形がついているものが多いが、種々の変形もある。馬はむかしの武人にとって欠かせない存在であり、同じ馬具から生まれた鐙紋もだが尚武的な意義から家紋に採用されたようだ。しかし、江戸時代、信仰を禁じられたキリスト教徒が、轡紋のなかに十字架をカムフラージュした形跡もある。
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写真:大和春日大社、おん祭の御渡りにて
豊後の中川氏の家紋は「クルス紋」であったが、後世「轡紋」とも「車紋」とも呼ばれている。島津氏の「丸に十字紋」
も轡紋に分類される場合もあったが、十文字が原型であり轡紋とはまったく別のものである。轡の十字形がキリストの
十字架に通ずるので、キリシタン信徒の疑いを避けるため便宜上「轡」の語を用いたものであろう。丹波の戦国大名
波多野氏も十字紋を用いたようで、その形は十字が輪から飛びぬけた「出(抜け)十字」である。波多野氏の城下で
あった篠山には隠れキリシタンの遺跡があり、一説に波多野氏はキリシタンであったともいう。現在、波多野氏の流れを
汲む家では「十字紋」が用いられているが、「轡紋」と呼ばることが多いようだ。しかし、轡紋と十字紋は、その成立は
まったく別のものであり、家紋本来の意義が失われているとすれば残念なことだ。
『見聞諸家紋』に、大草伊賀守の「轡に松皮菱」、久世九郎の「轡に梅鉢」が記されている。いずれも、後代の十字に
比べて、原型をとどめた意匠となっている。大草氏は代々足利氏に仕えた家で、一族の島崎・後藤・浅井・島・久保田・
下田の諸氏も轡紋を用いている。出自は藤原氏を称しているが、松皮菱紋を組み合わせていることから、本来は
信州小笠原氏の一族ではなかったかと推察されている。江戸時代、旗本として存続した大草家は「庵に三階菱」を用いており、
先祖の標を受け継いだものとなっている。
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左:抜け十字 ・ 右:中川クルス
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