輪宝紋
仏教の真理を説く法具として伝来、
修験者の間で広まり、三宅氏の代表紋となった。
六つ輪宝 変り六つ輪宝 丸に三つ輪宝 八つ宝輪

 古代の仏教では、法(真理)をもってこの世を治める王を転輪聖王といった。輪宝は、この転輪聖王の感得する七宝のひとつで、聖王は巨大な車輪を武器とし、人間の迷いや悪の根を断ち、世の中に平和と幸いをもたらすことを願いとした。輪宝は法輪ともいわれるが、仏の教えは一つところに止まることなく、あらゆる方向に転回してゆくことをあらわしたものであった。それが、輪宝は「真理を回らすもの」であることに意味が抽象化され、仏教のシンボルとなり広まっていった。インドの国旗の中央に描かれているのも輪宝である。
 輪宝は、仏教伝来とともに日本にも伝来した。日本で最も古いものは、薬師寺の仏足石に刻まれた輪宝といわれている。平安時代に描かれた国宝の『信貴山縁起絵巻』「延喜加持ノ巻」には、たくさんの剣を鎧にした童子が輪宝を廻しつつ天を懸ける情景が描かれている。すでに輪宝が文様として、寺院などに広まっていたことが知られる。
輪宝  やがて、仏具として重んじられるとともに、護身用の武器として用いられて修験者の間に広まった。修験道は役の行者が開祖という山岳信仰に発した古神道の一つで、その実践者は修験者または山伏とよばれた。かれらは仏教に帰依するとともに武力集団としての側面も有し、のちには山から里におりて神官になった例も多い。このようなことから、輪宝は寺院の印となり、とくに天台系の聖護院ではこの紋を大切にした。やがて神仏混淆の時代になると、神部神社や六所神社などでも神紋に輪宝が用いられるようになった。いまも、修験道系の寺院や神社で輪宝の紋を見ることが多い。輪宝紋は車のカタチをしているのが特徴で、剣のカタチをした矢が数本ついている。その矢の数によって「三つ剣輪宝」「八剣輪宝」などと称された。
 『見聞諸家紋』には、讃岐の三宅氏が使用と書かれている。江戸時代には、大名の三宅、加納、津軽の三家が 用いた。三宅氏の祖は、南北朝時代に南朝方で活躍した備前の武士児島高徳であるという。その子孫が備前はもとより三河へも移住したことで、輪宝紋は三宅氏の代表的家紋して広まった。一方、三宅氏は三宅連の子孫で、備前国児島郡三宅庄から起こったともいう。三宅庄は聖護院との関係も深く、修験道五流のあるところであった。当然、修験者も多く、みな輪宝を所持していた。それが、のちにシンボル化されて三宅氏の輪宝紋が生まれたようだ。そして、佐々竹・漆戸・塩入・根本など三宅一族と思われる諸氏が輪宝を家紋としている。
波多野  戦国時代に摂津の国人として活躍した三宅氏は藤原姓を称したが、家紋は「重折敷輪宝」を用いた。輪宝紋は、出自に関わらず三宅氏が好んで用いたことが知られる。津軽氏のものは「菊輪宝」と呼ばれるものだが、他に「卍」を用いており、旗印は「錫杖」で、仏教に関わる標を好んで用いているのが面白い。  

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写真:紀伊粉河寺で見た輪宝紋/ 家紋:加納氏の輪宝紋

輪宝紋を使用した戦国武将家
三宅氏(三河) 三宅氏(摂津)

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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ

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