宗像氏
丸に一つ柏
(宗像神社大宮司家)

 宗像神社は辺津宮・中津宮・沖津宮の三宮から成っており、宗像氏はこの三宮を合わせた神主家で、出雲族の支族と考えられる。初め宗形君といい、国造ではなかったが、大化の改新後、宗像郡の大領を兼帯したこともある。
 文治三年、大宮司宗像氏実が、関東御家人なって武士化し、正和二年には氏盛が「宗像氏事書」十三ケ条を定めている。以後、宗像郡を中心に領主制を展開し、元弘三年の鎮西探第攻撃に参加している。
 延元元年三月、大宮司氏範は九州に西走してきた足利尊氏を宗像社に迎え、菊池武敏らと戦っている。筑前の守護は鎌倉時代より少弐氏であったが、南北朝時代に入って一色氏が鎮西管領と兼務し、少弐氏と対立する。宗像氏俊は一色氏に属し南朝方の水軍の来週を報じている。さらに氏俊は九州探題斯波氏経や少弐頼尚らと、筑前の各所で菊池方と戦っており、康安元年には足利義詮から宗像城合戦における感状を受けている。貞治四年には壱岐国守護職に補任した。
 今川了俊が九州探題となって下向してくるとこれに従い、宗像社の造営、大宮司職と所領の安堵などを受けている。南北朝時代における宗像氏は将軍家・鎮西管領・九州探と密接な関係をもち、一時期を除いて北朝方として活動していた。
 くだって応永十九年(1412)、大宮司氏経は朝鮮の李氏大宗に使者を遣わして土物を贈ってより、氏顕・氏俊・氏正・氏郷に至る永正元年(1504)までの約百年間にわたる朝鮮貿易において、派遣した貿易船の数は三十四回に及んでいる、宗像氏の海への雄飛ぶりがうかがわれる。
 宗像氏は大内氏と提携して戦国大名の一となったが、正氏の代からほとんどその幕下となり、正氏は弟氏続に大宮司職を譲り、その子氏男を猶子とした。氏男は大内義隆の従兄弟にあたり、正氏は大内一族の待遇を受け、吉敷郡黒川に領地を賜ってそこに館を築き、黒川殿と呼ばれ、大内義隆の偏諱を受けて黒川刑部少輔隆尚と名乗った。氏男もまたのちに隆像と名を改めている。
 氏男は、陶隆房からの謀叛への一味への誘いを断わり、最後まで大内義隆に従って行動し、義隆が大寧寺で自害をしたときも、敵が近づくのをゆるさず、奮戦して陶方に討たれた。
 黒川隆像の死後、宗像家では家督相続をめぐって争いが起こった。すなわち、正氏と長州妻との間にできた鍋寿丸を擁立する山口派と、正氏が宗像に残した菊姫を擁立して、宗像嫡腹の正統を迎えようとする前大宮司氏続らとの骨肉の争いであった。宗像支配をねらい武力にものをいわせた陶氏が強引に鍋寿丸を入国させ、菊姫母娘は長州派の手によって殺害された。
 鍋寿丸はのちに氏貞と名乗り、天正十四年に死んだ。ここに、宗像大宮司の嫡流は断絶してしまった。 近世に入って、庶流の深田氏が後を継いでいる。
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■参考略系図