山中氏
四つ目結/橘/新月
(宇多源氏佐々木氏族) |
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山中鹿介幸盛の名は広く知られているが、その出自はあいまいで、鹿介の父すら確かな史料には現われないほどである。
「山中系図」によれば、出雲山中氏の祖は尼子清定(貞)の弟幸久であるという。しかし、「佐々木系図」には、幸久なる人物は見当たらない。「山中系図」の注記では、幸久は兄清定を討たんとして発覚し、幽閉され五十五歳で死んだという。が、この事件について記された史料は見当たらない。
三代満盛の注記には、尼子経久に従い塩冶掃部助を討つとあるから、文明八年元旦に経久が富田城奪回を果たした時、これに従って戦功を挙げたということになる。つまり、経久の富田城奪回について、詳しく記した『雲陽軍実記』で、活躍する山中勘兵衛勝重なる人物は、さしずめ満盛に比定されるだろう。
四代満幸は二十七歳で早世し、そのとき鹿介はわずか二歳であったという。天文十四年(1545)生まれの鹿介は、二男だったので亀井秀綱の養子となったが、兄甚太郎が病弱のため廃嫡となり、実家に帰り山中家を継いだ。妻は秀綱の娘である。山中家は尼子家臣団では中老格であった。
永禄九年尼子氏が滅亡すると、鹿介は尼子氏再興の中心となって各地で転戦するが、天正六年(1578)播磨上月城において、総力を結集した毛利氏の大軍に包囲された。このころ羽柴秀吉は毛利氏に味方した別所長治を三木城に攻めていたが、急報により上月城を救おうとした。しかし信長の命令によって上月城を見捨てたのであった。
秀吉の退陣によって、上月城の落城は目前となった。鹿介は主君ともりたてた尼子勝久の助命を再三懇願したが容れられず、勝久らが切腹し、尼子氏再興の戦いは終わりを告げた。そして、鹿助は備中松山城の毛利輝元の本陣へ護送される途中、甲部川の合の渡しにおいて殺された。
鹿助の後妻の二男新六なるものが、鴻池の祖になったと伝えられるが定かではない。
■略系図
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