拾い話
大名阿部家と鷹羽紋



 阿部氏は孝元天皇の第一皇子阿部大彦命の後裔といい、古代大和飛鳥地方の安倍村で栄えた 阿部氏の子孫が三河に土着し、中世は代々額田郡に住したという。阿部忠正のとき額田郡の桑子・小針に城を築き、 忠正の子正宣は松平清康・広忠の二代に仕え、孫の正勝が大名阿部家の初代となった。
 正勝は家康が駿河今川家の人質となったときに付き従ってより、家康の側近くに仕えてあらゆる戦いに出陣した。 関が原の合戦を目前に正勝が死去すると嫡男の正次が出陣、つづく大阪の陣にも活躍、 八万六千石の大名に出世した。また正次は文治の才に恵まれ、大阪城代、老中をつとめ徳川幕閣として活躍した。 五代正邦のとき備後福山に十万石で封ぜられ、以後、明治維新まで移動はなかった。 阿部家には大名・旗本に多くの分家があるが、大名としては正勝の次男忠吉よりおこった白河阿部家、 重次の次男正春の子正鎮に始まる上総国佐貫阿部家がある。
 阿倍家は名君を輩出し、二代正次、三代重次、七代正右、八代正倫、九代正精、十一代正弘らが幕府老中となっている。 なかでも正弘は出色の人物で、弱冠二十五歳で老中になると水野忠邦が行った天保の改革後の幕政の建て直しに尽力する。 二十七歳で老中主座となり、有能な外様藩主に意見を求めるなどしながら文字通り多事多難な内政外交に努めた。 嘉永七年(1854)、日米和親条約などを結び、二百年にわたった鎖国の禁を解いた。 福山藩主として国元に帰ったのは一度きりという激務がたたって三十九歳の若さで世を去った。 歴史にもしはないが、正弘が長命であれば、井伊直弼の起こした安政の大獄はなかったであろうと思われるだけに 惜しい早世であった。
 阿部家の定紋は、三家とも「違い鷹の羽」であるが、本家・分家を識別できるように微妙な差異を見せている。 福山阿部家は「丸に右重ね違い鷹の羽」で羽に斑模様が付く、白河阿部家は「石持ち地抜き左重ね違い鷹の羽」、 佐貫阿部家は「丸に左重ね違い鷹の羽」となる。替紋は福山阿部家と佐貫阿部家が「黒(石)餅」で、 白河阿部家が「輪紋」を用いている。


・左より:丸に右重ね違い鷹の羽 /石持ち地抜き左重ね違い鷹の羽 /丸に左重ね違い鷹の羽

 
・左より:輪紋 /黒(石)餅


 ちなみに、鷹の羽紋は多くの武家に用いられ、大名と旗本で百二十家が用いている。また、黒(石)餅は 石高の増加を、あるいは長寿の印として多くの大名が控紋として用いた。
[資料:歴史読本432号]



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