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家名
| 家紋
| 由緒
| 家名
| 家紋
| 由緒 |
中井家
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| 輪違い
巨勢氏の後裔といい、正清の代に外家の称である中井となり、姓も橘とする。家康に属してのち、土木のことに精を出し、工匠らを支配した。
| 長井家
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| 組み井桁
斎藤別当実盛の血をひく家らしい。武蔵の幡羅郡長井に住して長井を称した。子孫は武田家に仕え、吉正のとき武田家が倒れて、家康麾下に入った。
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永井家
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| 一文字三つ星
もと長田氏(桓武平氏)だったが、直勝のときから永井(大江氏族)に変わった。直系は山城淀十万石まで達したが、のち領土を召しあげられた。その後美濃加納・摂津高槻の両大名家が残った。宗支あわせて二十七家を数えた。
| 長尾家
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| 三つ巴
桓武平氏鎌倉氏の一族。長尾景継は北条氏に仕えたが、ゆえあって去る。のち、家康からの手が伸びて、その麾下に入った。
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中川家
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| 酢漿草
豊後中川氏とは出自の違う中川氏が旗本にいた。織田氏族で信長に仕えて、重政以降中川氏を称した家。藤原南家流と伝える中川家。それと多田氏族を称した中川家だ。三家とも酢漿草紋を用いている。
| 長坂家
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| 丸に三階菱
小笠原長朝三代の孫、信定のときから長坂氏を称した。長坂信政は清康・広忠・家康の三代に仕えた。かれは血槍長九郎の俗称の方が有名だ。信政が戦いに加わるときはその槍が敵の血で乾くことがなかったといわれ、清康から皆朱の槍を与えられたという。
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中沢家
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| 七本骨扇
佐竹氏の一族で、小瀬氏を称していたが貞重のとき中沢をとなえたという。代々甲州にいて、武田家に仕え、中沢吉政に至って主家が滅び家康に属した。
| 長塩家
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| 丸に左上の字
足利房長が下野国長塩を領して長塩を名字とした。もと武田の家臣という。長塩長家は家康に仕え、さらに秀忠・家光に仕えた。家紋からみて、村上氏の分流に関係があるようだ。。
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中島家
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| 九曜巴
家系、家紋が異なる中島家がある。小笠原氏族伴野氏から出たものは「九曜巴」。秀郷流波多野氏から出たものは「亀甲に花菱」。藤原北家流ろ称し、備中加陽郡中島から出たものは「亀甲に二つ引両」を用いている。
| 永田家
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| 釘抜
藤原氏支流とも、佐々木氏の後ともいう。織田家臣の永田久琢は信雄の浮沈に従って、あるいは浮かび、あるいは沈みした挙句に徳川秀忠に召されて旗本に列した。
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中西家
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| 沢瀉
家系は詳らかではない。中西元如が筒井順慶に仕えたが、筒井家の所領没収後、世にひそんでいたが、徳川家康によって盛り立てられた。
| 中根家
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| 抱き茗荷
系統の違う二系の中根氏があった。家紋は両系とも「抱き茗荷」「揚羽蝶」を主紋としている。ひとつは大掾氏から、ひとつは大橋氏から分かれ、ともに桓武平氏の末を称している。
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中野家
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| 丸に酢漿草
井伊忠直(井伊直政六世の祖)の子直方が中野を称した。中野重弘・弘吉の二代は但馬や石見の銀鉱に貢献した。
| 中坊家
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| 繋ぎ梅鉢
代々奈良に住んで、奈良氏の地名を負った奈良氏の一族が中坊氏に改めた。中坊秀祐は筒井順慶に属した。家紋は筒井氏との関係がしのばれる。その後秀祐は家康に召し出されて大和の旧領を安堵された。
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半井家
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| 裏菊
和気清麻呂の後裔和気氏から出たもので、医家半井の名は高い。家紋は足利義政から賜与されたものという。信長、秀吉にも厚遇されたようだ。半井成信のとき家康に近づき、その子成近は千五百石の知行となっている。
| 那須家
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| 一文字に菊
最初下野那須一万四千石だったが取りつぶしに遭う。のちに那須烏山二万石に再興したが数年を出ずして除封となった。その後千石の采地を得て、旗本として存続した。
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夏目家
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| 籬架(mase)菊
清和源氏二柳氏族と称する。代々徳川松平家に仕え、夏目吉信は三方ケ原の戦で家康に代わって討死。家康もその忠死をいたんで、その子吉忠に伊豆韮山一万石の恩命があったが実現しないまま、宗家は絶えた。吉信の三男信次の流れが旗本として残った。
| 名取家
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| 武田菱の内花菱
武田氏族というが、毛野氏族という説もある。武田遺臣から徳川家康の麾下に入った。
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成瀬家
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| 下り藤
成瀬正成は尾張藩家老として犬山に入封した。その弟正武ほ家が徳川旗本として残った。
| 南条家
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| 揚羽蝶
藤原氏を称する。関ヶ原の役で西軍に与して滅んだ伯耆の佐々木氏族南条氏(羽衣毛四万石)と同族であろうといわれている。家光の世に南条隆政が四百石を知行した。
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