武家政権を担った、鎌倉武士たちの家紋
平安時代も末期にさしかかった西暦1000年頃、多くの家に共通の現象が見られた。それは、分裂と対立である。天皇家では、真実はどうあれ系図上では兄弟になる、崇徳上皇と後白河天皇が対立した。藤原摂関家では忠実・忠通父子が対立し、忠通・頼長兄弟が抗争した。源平両氏の内部でも、ことは同様だった。為義・義朝父子が敵味方になり、義朝・為朝兄弟が戦っていた。平家でも。甥の清盛と叔父の忠正とが敵味方になっていた。
日本史上、最もダーティな合戦が、保元の乱であった。多くの親子兄弟が敵味方にわかれ、互いに殺しあったからである。そして、三年後には平治の乱が起こり、それでも決着はつかなかった。天皇・藤原摂関家の抗争からはじまった乱世は、平氏が政権をとってもあさまることはなく、さらに源平合戦へと時代は推移していった。
この間多くの新興武士があるものは平氏に、あるものは源氏に味方してあい争った。そして、源平合戦のなかから彼等は自立の道を探り、源頼朝を旗頭に古代から続いた公家政権に変わる、武士が主人公となる鎌倉政権を樹立した。ここに新しい支配階層が生まれたといえる。かれらの多くは関東の荒れ地を開墾し、いわゆる一所懸命に源平合戦の時代を生き抜いてきた”つわもの”たちであった。
かれらは平氏の没官領を与えられ、庶子を拝領した新領地に配していった。さらに、頼朝による奥州征伐が起こり、敗れた奥州藤原氏の領地は、戦功として御家人たちに分け与えられ、東国武士の多くが奥州へと下向していった。こうして、東国武士を先祖にする名字と家紋が、日本全国へと広がっていた。
また、鎌倉武士を形成する、武将家の多くは桓武平氏のいわゆる坂東平氏といわれるものたち、そして藤原秀郷の後裔とされる武将家が多いのも特徴的だ。つまりかれらこそ、都から東国に移住して関東の荒撫地を代々開拓してきたものたちであった。それに比して、源頼朝と同じ清和源氏系の武将家はきわめて少ない。これは、清和源氏がかれらに比べて新しい存在であり、源平合戦で多くの同族が相喰んだ結果のあらわれのひとつかも知れない。
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●各武将の家紋は、代表的なもののみを紹介しています。●系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にしています。
[家伝資料:前記に同じ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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