武門藤原氏の家紋から探る
藤原氏の家紋は名字にちなんで「藤」とされる。藤原一族の家紋を見ると摂関家筆頭で嫡流の近衛氏が「牡丹」、
のこる摂関四家では鷹司家が「牡丹」、九条・二条・一条家が「藤」紋を用いている。その他の公家をみると、
三条家が「唐花」、西園寺家が「巴」、徳大寺家が「木瓜」、今出川家が「楓」、冷泉家・大飯御門家が「酢漿草」紋を
用いている。一方、藤原氏系武家はといえば、伊達氏が「引き両」、上杉氏が「竹に雀」、
宇都宮氏・小山氏らが「巴」、伊東氏が「庵に木瓜」、大友氏が「杏葉」、竜造寺氏が「日足」というように
藤紋を用いる家はまことに少数派である。どうやら、家系を藤原氏に求めた家の多くが藤紋を用いているようである。
徳川幕府が編纂した「寛政重修諸家譜(寛政譜)」に記載された藤原氏は、
兼通・道兼・頼道・長家・良門・利仁・秀郷・為憲・宇都宮氏支流・那須氏支流など二十余流である。
兼通流は「立ち葵紋」が五十%近くを占めているが、そのほとんどが本多一族であり立ち葵紋は兼通流というより
本多氏の代表紋といえる。道兼流は巴紋が二割を占めており、道兼流に属する宇都宮支流では「大文字」が三十五%、
巴紋が二割を占めている。大文字紋は道兼流大久保氏一族が多く用いており、道兼流としては巴紋が代表紋といえよう。
頼道流では葉菊紋が五割を占めるが、これは頼道流花山院支流青山氏一族の用いるもので、葉菊を頼道流の代表紋とは
いいがたい。長家流は「一文字」紋が四割を占めているが、これも那須一族が含まれていることから一文字紋は
那須氏の代表紋であろう。ついで、良門流では「巴」「三階菱」「竹に雀」紋が多く用いられている。
巴紋は朝比奈・岡部氏、三階菱は中山氏、竹に雀紋は良門流勧修寺家から出た上杉氏が用いており、
それぞれの氏の代表紋といえる。ちなみに、公家の勧修寺家一門の家紋を見ると圧倒的に竹に雀紋が多く、
竹に雀紋は武家・公家ともに勧修寺家の代表紋といえるものだ。
武家藤原氏といえば、利仁流と秀郷流はどうだろうか。まず、利仁流は二十六氏百九十九家が記載されており、
そのうち二割が藤紋を用いている。一方の秀郷流は百七氏三百五十五家で、こちらも藤紋が二割を占めている。
利仁流と秀郷流に属する家を見ると、斎藤・加藤・佐藤・後藤・尾藤・近藤など、
名字に藤文字を用いている家が多いことからズバリ氏を表す家紋として「藤」が多いようだ。
一方、利仁流と秀郷流は古代豪族が姻戚関係でもって藤原姓になったという説もあり、
藤紋を用いることで藤原姓であることを強調した結果かもしれない。
以上は藤原北家に属する諸流だが、藤原南家に属するものは二十八氏百二十二家あり、「木瓜」と「松」紋が多い。
それは、南家為憲流の伊東氏と天野氏が多数派を占めており、「木瓜」は伊東氏と一族、「松」は天野氏と一族の
代表紋といえるものである。
最後に寛政譜に記載された藤原氏に属する家で藤紋を使用するものは全体の六%で、これをみても藤紋を藤原氏の
代表紋とはいいがたいことが理解できよう。また、寛政譜に記載された藤原姓の家々は、江戸時代、徳川氏に属した
大名・旗本が主体であり、戦国乱世のなかで没落あるいは滅亡した少弐・小野寺・竜造寺氏といった中世武家のものは当然ながら漏れている。実際、
中世武家の家紋や系譜に関しては、近世大名の家臣となった家、かつての所領地に帰農して村の有力者として
続いた家などに伝えられていることが多い。そういう観点からみれば、寛政譜に記載された武家は
戦国時代に勃興した家が多く、寛政譜をもとにして代表紋を求める方法は片手落ちなものではある。
・写真 :謙信を祀る春日山神社の提灯に描かれた上杉家の竹に雀紋
● 藤原氏略系図
● 武門藤原氏各流の家紋
● 公家の紋章
■諸氏の代表紋
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[参考資料:日本紋章(沼田頼輔著・人物往来社刊) ・歴史読本432号]
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