家紋の分布から探る
地方分類



四国は、阿波・讃岐・伊予・土佐の四つの国があって四国となった。阿波は小笠原氏の一族が広まったことから 三階菱紋、伊予は大三島神社が鎮座し、 その祭祀にあずかった古代越智氏一族が繁衍して大三島神社の神紋である折敷に三文字紋が多い。
徳島県香川県愛媛県高知県


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徳島県
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阿波踊りで知られる徳島県では、甲斐源氏小笠原氏が鎌倉時代に守護を務めたことからその一族が広まった。その一流である三好氏は、小笠原氏ゆかりの「三階菱と釘抜紋」、「釘抜紋」を単独で用いることもあった。三好長慶は一時期京都を支配下に治めたが、天下人となる野望は持っていなかったらしく、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、 嫡子義興が死ぬと、弟十河一存の遺児義継を養子としたが、実子を失って気落ちしたまま病没してしまった。
長慶の弟が家督を継いだ十河氏は「公饗に檜扇紋」で、存保は鬼十河と異名をとるほどの猛将だったが、土佐の長宗我部元親によって国を逐われた。のちに、 豊臣大名として復活したものの、天正十四年(1586)豊後戸次川の合戦で島津軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。
阿波国旗下幕紋控 にリンク

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香川県
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一時期、讃岐うどんがブームとなった香川では綾藤原氏が勢力をもち、その後裔を称する香西・大野・羽床・福家・新居・飯田・寒河の諸氏が「三階松紋」を用いた。『見聞諸家紋』には、大野氏の「下り藤に三階松」、羽床氏の「枝付き三階松」、新居氏の「三階松」、 福家氏の「三階松に水」、香西越後守元正の「三階松に岩に笹」、飯田氏の「三階松に鏑矢」などが収録されている。
寒川郡北部に勢力をもったのが安富氏で、応仁の乱には東軍に属して活躍した。安富氏は紀長谷雄の後裔を称し、家紋は「丸の内に石畳」。讃岐を安富氏と二分したのが天霧城主香川氏で、「巴九曜紋」を用いた。坂東八平氏の流れで、同じ「巴九曜紋」を用いる上野・越後の長尾氏とは同族。その他、讃岐長尾氏は「庵紋」、大井氏は「輪紋」、 稲毛氏は「三つ並び鷹の羽紋」、筒井氏は「羽団扇紋」、三宅氏は「輪宝紋」をそれぞれ用いたことが知られる。

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愛媛県
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伊予愛媛は、大山祇(オオヤマヅミ)神が鎮座する三島神社の神紋が「折敷に三文字紋」で、三島神社を祭祀した越智氏をはじめ、その一族の河野・久留島・一柳・稲葉らが同紋を用いた。とくに、河野氏の家紋として世に知られた。河野氏は蒙古襲来の時水軍を率いて活躍、元弘・建武の争乱には、宗家は足利尊氏に属したが、一族の得能・土居氏は南朝方に尽くし、一族が二派に分かれて戦った。 室町時代になると伊予守護に任ぜられ湯築城に拠って勢力を持ったが戦国末期に没落した。
伊予国は、都から下ってきた西園寺氏、下野から下ってきた宇都宮氏がともに「巴紋」を用いた。戦国時代、西園寺氏を補佐して活躍したのが大森城主土居氏で、紀伊国牟婁郡土居の鈴木党というが、その家紋は「一枚楓」であった。また、伊予国は水軍が多い土地柄で、瀬戸内海西部の一要衝である伊予国忽那七島に拠り、中世期海上に活躍した在地勢力の忽那氏は「杏葉牡丹」。 同じく水軍で、二神島に拠った藤原姓豊田氏後裔二神氏は「丸の内一文字」であった。
とくに、河野氏の家紋として世に知られた。河野氏は蒙古襲来のとき水軍を率いて活躍、元弘・建武の争乱には、 宗家は足利尊氏に属したが、一族の得能・土居氏は南朝方に尽くし、一族が南北に分かれて戦った。室町時代になると 伊予守護に任ぜられ湯築城に拠って勢力を持ったが戦国末期に没落した。
その他、都から下ってきた西園寺氏、下野から下ってきた宇都宮氏がともに「三つ巴紋」を用いた。戦国時代、西園寺氏を補佐して活躍したのが大森城主土居氏で、紀伊国牟婁郡土居の鈴木党というが、家紋は「一枚楓紋」であった。また、伊予国は水軍が多い土地柄で、瀬戸内海西部の一要衝である伊予国忽那七島に拠り、海賊として活躍した忽那氏は「杏葉牡丹紋」。 同じく二神島に拠った藤原姓豊田氏の後裔二神氏は、「丸の内に一文字紋」であった。

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高知県
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大平洋の黒潮に面する土佐高知では、摂関家の身でありながら都の戦乱を避けて土佐に下向してきた一条氏が 「藤の丸紋」。一条氏は、飛騨の姉小路氏・伊勢の北畠氏とともに、公家の戦国大名化したものとして、「三国司」の 一人に数えられる。戦国時代、没落の憂き目にあった長宗我部国親を保護したが、 のちに国親の子元親によって没落した。
長曽我部氏は泰氏の後裔を称していた。 泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのが、その始まりとされている。 守護細川氏に仕えて勢力を拡大、一時、不遇をかこったが、元親の活躍で 本山氏を滅ぼし、安芸氏を倒し、天正二年(1574)には 旧恩ある一条兼定を豊後に追ってしまった。こうして土佐一国の統一に成功した元親は阿波・伊予・讃岐へ兵を進め、 四国制覇の戦いを進めていった。しかし、統一を目前とした天正十三年、豊臣秀吉の征伐軍に敗れ、 土佐一国を安堵され豊臣大名に列した。家紋は先祖ゆかりの「七つ酢漿草紋」と「帆掛船紋」を用いた。
元親と戦った安芸氏が「三つ割剣花菱紋」と「橘紋」、本山氏が「檜扇紋」。その他では藤原氏流近藤氏族という 大平氏が「木瓜に三つ巴紋」、甲斐武田氏の一族一条次郎忠頼に発する香曽我部氏が「割菱紋」、津野庄を支配していた 津野氏は「丸の内一文字紋」を用いた。 その他、南部氏の「鶴の丸紋」、佐竹氏の「扇紋」、細川氏系の天竺氏の「二つ引両紋」、 小笠原一族の豊永氏の「三階菱紋」などが知られる。 
上に戻る [資料:日本紋章学(新人物往来社刊)]









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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ


2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
幕末志士の家紋
龍馬の紋
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